The Social Insight Updater

2011.4.13 update

デフレ不況で生まれた「心の消費」

田中秀臣(上武大学教授)

言わずと知れた国民的アイドル「AKB48」。
秋葉原の劇場を拠点とした「会いに行けるアイドル」がなぜ国民的と呼ばれるまでになったのか。

AKB48がデフレカルチャーの中でどういった存在なのか、そしてAKB48を生んだ秋葉原は今後どうなっていくのか。
『AKB48の経済学』の著者、田中秀臣先生に伺った。

デフレカルチャーの中でAKB48が受け入れられた理由

「デフレカルチャー」は、速水健朗氏が最初に提唱した言葉で、日本の1990年代から2000年代にかけてのデフレと経済の低迷が特に、若い人を中心に消費や文化活動に変化をもたらしていると指摘し、そう呼んだ。
AKB48はデフレカルチャーの中で中心にいるような存在だと考えている。

そもそも不況になるとアイドルが誕生するとよく言われる。
AKB48がブレイクしたのは2008年のこと。2008年夏にサブプライムローン問題が発覚し世界的不況に突入したまさにその年にデビューした。このように日本で経済不安が究極に高まったときに10代を中心とする集団アイドルが世の中に受け入れられたという歴史的符号はAKB48が初めてではない。
例えば1992年に結成された「スーパーモンキーズ」。そして95年に「SPEED」が、97年には「モーニング娘」がデビュー。この2組のアイドルは日本経済が大きく沈下した97年という年の前後にデビューしている。「モーニング娘」は公開オーディションという形をとってアイドルの間口を広げ、この成功は暗い世相に希望を与えてくれる物語として若い女性達から支持された側面があっただろう。

なぜ不況になるとアイドルが生まれるのだろうか。
不況になると人々の感情として逆ハネが働く。例えばオイルショックのときに「ガンダム」は誕生した。「ガンダム」の中で描かれる少年兵が戦場で苦しみながらも戦っていく様子は、当時の就職難でもがく若者とシンクロした。
アイドルの場合は、不況の中で求められてくる「癒し」のニーズに応え、希望を与えてくれる存在なのだろう しかし、AKB48は今までのアイドルとは少し違う。AKB48はデフレカルチャーとして台頭してきた「心の消費」に当てはまった。

我々はデフレ不況の中で、人々は小さな物語を作り、他人の物語とコミットさせることで「心の消費」欲をみたすようになってきた(※デフレ不況で生まれた心の消費)。
AKB48は「会いにいけるアイドル」をコンセプトに劇場中心に活動してきた。これは宝塚と同じだが、劇場が拠点になると、コアなファンができるようになる。そしてなんといっても身近に感じられる。そうした距離の近さは物語を作りやすい。それにAKB48は研究生も合わせると100名以上のメンバーがいるが、多くがブログをやっている。自分の物語にコミットできる子を見つけ、彼女たちの小さな物語を消費していくのだ。
こうしてAKB48は、ファンの心の消費の対象となり、コアなファンを作りながら大きくなっていった。

ガラパゴス化が日本の文化を支える

日本人は昔から素人芸が好きだ。歴代のアイドルを見ても、「おニャン子クラブ」に「モーニング娘」と素人からいきなりスクリーンに登場している。AKB48のメンバーの多くもオーディションの数か月後には劇場でデビューしている。日本の場合はOJTで育てていく。しかし海外を見ると全く違う。デビューするまでに数年にわたる訓練を受けていることが標準的だ。アメリカや韓国が特にそうだ。
アメリカで「アメリカンアイドル」という、日本で1970年代にあった「スター誕生!」と同じように優勝するとデビューできるシステムの番組が人気を集めている。しかしそこから誕生するアイドルのタイプは日本とは全く違う。オーディションを勝ち抜く人は、アメリカのネット文化の需要に見合うようなオタク好みの萌え要素のアイドルではなく、ハリウッド文化に沿うような人だ。やはりアメリカはショービジネスがメインカルチャーなため、オタク的サブカルチャーの要素を備えたアイドルはなかなか育ってこない。その隙間に入ったのが日本のアイドルだ。
AKB48の海外公演はネットを中心にして関心をもった世界のオタクたちが会場を埋める。特にその市場はロシアやアジア諸国、ヨーロッパ諸国にある。現在、AKB48のシステム(=フォーマット)はグローバル展開されようとしているが、そのシステムが世界に拡大する課程は非常に興味深い。

AKB48はオタク文化から誕生し、今や国民的と呼ばれるようになった。その背景には、オタク文化のポピュラー化がある。AKB48がデビューしたのは2005年で、秋葉原がポピュラー化した年でもある。その頃からPOPカルチャー、サブカルチャーの舞台として秋葉原が世界的に注目された。
しかし、その世界的な注目は秋葉原の個性を弱めていくことになった。
秋葉原は観光地化されていくにつれて特にコアな顧客とはいえない人たち、外国人が訪れるようになり、今では休日の歩行者天国を見ると多くが家族連れだ。駅前もキレイになりすぎた。例えば、昔はもっと街中のポスターも性的表現が露骨だったが今や家族が行ける場所になった。かつて戦後から続くようなパーツ売場は衰退し、ビジネス街になってきた。これはまるで、新宿がエンターテイメントしていった流れと同じだ。新宿も60年代から70年代にかけて、花園神社やゴールデン街を中心にアングラ文化が生まれたが、百貨店が次々とでき歩行者天国ができると休日は家族連れが目立つようになった。そうして、家族でも楽しめる場所も、アングラ文化や歓楽街とは別に育ってきた。そうした現象が今の秋葉原にも発生しているのではないか。この新宿で起きた現象が、極めて狭い地域で濃縮して起きているのが秋葉原。まさに秋葉原は小さい新宿になろうとしている。そこには従来のおたくたちを引きつける場所もあるが、同時にそれを上回る勢いで、ビジネス街や親子連れ、カップルなどをひきつけるエリアとして急成長をしている。

秋葉原は今後も文化が発祥する場所になりうるだろうか。
AKB48が人気を泊して以降、秋葉原には「ももいろクローバー」など会いに行けるアイドルがいくつか登場した。このように秋葉原は独自の文化を作っていくであろうが、ムーブメントを起こせるかというと難しくなっている。これは、かつて文化の中心であった六本木や青山が個性を失っていった経緯にも似ている。六本木は80年代の地下文化の発祥地だった。六本木WAVEやシネヴィヴァン六本木など流行をいち早く発信してきた。しかし80年代に埼京線が開通し、人々が六本木や青山に集まると、文化の発信地点としての価値は弱くなっていった。
秋葉原も2005年につくばエクスプレスの開通で、筑波から直接乗り入れられるようになった。こうしてインフラが整ってくると、独特な文化が衰退していってしまうのは皮肉だ。今後ムーブメントを起こせるとしたら、開発の手が加えられていない場所だろう。
例えば、新大久保がK-POPブームを牽引し、中野が第二のオタクの聖地となっているように、利便性の悪いところに文化は生まれやすいのかもしれない。 日本の製品や文化が「ガラパゴス化」と言われる中で、同じように文化の発祥も隔離されている所で生まれていくのだろう。

※本記事は取材を元に作成。

この記事をつぶやく

プロフィール
田中秀臣

田中秀臣

現在:
上武大学ビジネス情報学部教授
専門:
経済思想史、日本経済論
著作:
『昭和恐慌の研究』東洋経済新報書 2004年 (共著)
 
『不謹慎な経済学』講談社 (単著) 2008年 (単著)
 
『雇用大崩壊』NHK出版生活人新書2009年 (単著)
 
『偏差値40から良い会社に入る方法』東洋経済新報社2009年 (単著)
 
『デフレ不況 日本銀行の大罪』朝日新聞出版社 2010年 (単著)
 
『AKB48の経済学』朝日新聞出版 2010年(単著)
 
…他多数

 

ARCHIVES TOP

RECENT ENTRIES

PAGE TOP