The Social Insight Updater

2012.5.20 update

ネットの中のワタシはどこの私か

粉川一郎(武蔵大学 社会学部メディア社会学科 教授)

ネットメディアという空間の中で、自分という存在は どのように描き出されるのか(描き出すのか)。 「パブリック」と「アイデンティティ」の関係からその推移と現在地をウォッチする。

アーキテクチャが許してくれない「新しい私」の構築

90年代の終わり頃、ネットは明確なパブリックな空間だった。あの頃は企業も団体もHPから情報発信・提供するだけ。それこそweb1.0だった。ネットはあくまで個人の参加で作り上げられており、ある種ボランタリーな世界であった。そんなパブリックなインターネット空間への貢献意識のあらわれがフリーウェア文化やネットコミュニケーションの文化にはあったと思うが、それが機能していたのは2ちゃんねるまで。
そもそも私は2ちゃんねるを非常に高く評価している。あの場はある種、ネットという公共空間において私達のアイデンティティの在り方がどう変わっていくかがのひとつの答えだったのかなと思っている。

2ちゃんねるが素敵だったと思うのは、バックグラウンドにある現実世界の「自分」を一切排除した新しい参画の場を作り出したこと。そこに低いハードルで参画できることを保証した。論理性のある文章を書く必要性を排除し、「キボンヌ」「モナー」「ゴルァ」といった古い2ちゃん語は、その語さえ用いればなんとなくその場にふさわしい発言と認められる緩やかさを実現した。そして2ちゃんねるに求められるコミュニケーション様式をコピペという形で広く伝えることも行われていた。コピペは2ちゃんねるというコミュニティにおける伝承される神話と考えることもできる。
昔から人々はムラ社会の中で神話を口承して共有し、コミュニティの成員としての意識を高めていった。同様のことを過去の2ちゃんねるのコピペに見出すことができる。コピペの中にコミュニティにおける規範意識が明確に示されているのだ。アスキーアートで描かれた「チラシの裏にでも書け」という自分語りへの警告や、fusianasanのコピペによるネット上のリスクの啓発等々。それはコミュニティにおけるリスクや忌避すべき態度をコピペの形で伝播させ、集団の成員となるためのハードルを下げるものだった。

その規範の中で、参加者は自ら発するコンテンツ内容を競うことになる。いかに相手に役立つことを言えるのか、相手が興味関心を持っていることについて言えるのかだけに参加のハードルを絞ることによって、ナレッジベースだけの非常に平等な社会を築き上げた。
でも、裏を返せばそれはかなりハードな事。眺めていたら楽しいかも知れないけれど、入っていこうと思ったら多くの人にはそれは難しいことになる。つまらないことを一行書いて集団の成員になることは簡単だけれど、2ちゃんねらーとしての相手からの承認を得る、つまりレスをつけてもらうのは難しい。コンテンツ勝負の形で2ちゃんねらーとしてのアイデンティティの形成に失敗したユーザーは、その危機に対抗すべくジェンダーや国籍に逃げ場を見つける。ネトウヨ現象などはその一つの現れと考えることもできるだろう。2ちゃんねるにおける攻撃性は、そうしたシビアな環境が育んだものではないか。

一方2000年代に入り、ブログ、mixi、gree・・・などが出てくる。そこからコンテンツ勝負ではなく自分が自分であることを書くだけで他者から承認されるようなサービスにシフトをしていく流れになった。しかし、一方でその移行は緩やかで、どのような自分をネット上に示すかについては自由度があった。例えばmixiは「あなたは誰ですか?」ということをシステムが問わず「本名を書くと検索しやすくてイイかもね」くらいしか書いていなかった。あなたというものをネット上で再構築していけばいいんですよという余地が残っていて、その緩やかさはそれでまでの匿名性に立脚した文化との整合性を保っていた。 現代社会において自分のアイデンティティを多層化させるのは当たり前の話になってきているけれど、その多層化したもの一つとして「マイミクが100人いる私」というアイデンティティも成立させることもできる。
またブログは、個人が他者から承認を受けたいテーマに特化して書けばいいという選択の自由があった。そういう場では現実社会の縛りからある程度自由なアイデンティティ構築ができるので、誰もが同等で開かれたコミュニケーションができる、パブリックな空間というインターネットの位置づけは維持されていたと考えられる。

しかし、その後の黒船来襲、つまりネットサービスのグローバリゼーションの波が、自由になったはずのアイデンティティ構築を巻き戻してしまう。Twitterあたりから徐々におかしくなってきてFacebookでその極を迎える。アーキテクチャが「新しい私」の構築を許してくれない世界。そういう意味で、私はFacebookは暴力だと思う。暴力的なアーキテクチャ。
そこでのアイデンティティは、限定された学歴とか職業といった現実社会において私達が獲得する形で得てきた属性をベースに構築され、ネットに参加する中で新しく構築したり獲得したりする物に拠ることはできない。
もちろんネット人格=ネット上の私を「見せて」いくためには様々な書き込みをしていかなければいけないので、ウォールに書き込んだり、テキストによって新たに構築する部分は必要になる。しかし当然のことながらリアルな社会関係を意識しつつ「自分を他者にどう見せるか」「本質的な自分は他者からどう見られたいか」というせめぎ合いの中で、結局は私の中のいい子チャンの部分しか出せないことになる。そういう場で承認を得なければいけないのはすごくストレスフルな世界であろう。
ただ、ボランティアの勧誘等には一番いいツール。企業のCSR活動を発信していくツールとしてみればどんな媒体よりもFacebookは有効だし、レスポンスも得やすい。そもそもFacebookに参加することで「いい子チャンモード」になってるからこうした公益的な活動に対する賛同が自然に表明できるとも考えられる。
一方でTwitterはバランスをとっている。ある程度の匿名性もありながら、実社会の人間関係にも引っ張られている。

アイデンティティの源泉は獲得属性か、コンテンツか

ネット上でのアイデンティティ形成をリアルワールドで獲得してきた属性に立脚して行うのか、それとも発信するコンテンツに立脚して新たに作り出していくのか、どちらがやりやすいかは、個々人でかなりハッキリ分かれるように思う。私には不思議なことだが、Facebookを心の底から楽しんでやっている人がいる。一方で2ちゃんねるを心地よく感じる人もいる。
Twitterはその中間に位置するだろう。Twitterが日本で流行ったのは2ちゃんねるの土壌があったから。Twitterはコンテンツ勝負な部分と、そうじゃないところが混ざっている。RTしてもらえるコメントを書かなければいけないと思っている人もいれば、「ランチなう」だけで成立する世界が両立している。
そんなTwitterのユルさは、シビアなコンテンツの応酬(過去の吉野家コピペのように)を前提としていた2ちゃんねるの課題をうまく乗り越えたのかもしれない。あなたはあなたとして存在することを認めますよ、という部分とコンテンツ勝負の部分。そういう意味では馴染みやすい。

そもそもネットコミュニケーションの価値をどこに見出すかということで見解は分かれるかもしれないが、現実社会とは必ずしもリンクしない形でたくさんのレスをもらい、RTをされ、ファぼられることで、人々のアイデンティティクライシスを救うことができるという機能に注目するなら、現状のソーシャルメディアの在り方には残念な方向に向かっているといえるだろう。
結局、現実社会で獲得してきた学歴や職業といった属性による自分というものが前面に押し出る形に回帰してしまい、それによって発信するコンテンツが制約を受けるという形態になってしまうことを本当によしとするのかどうかは考える必要がある。少なくとも、1980年代90年代に青春時代を過ごし、コンピュータやネットワークというものに夢を持ち、フロンティアを築き上げてきたという自負を持つ人々にとっては違和感があるだろう。
しかし、実際にはFacebookも頭打ちになる一方、mixiも一定の機能を維持し、2ちゃんねるもいまだに盛況な状況を考えれば、皆さんそのあたり上手に使い分けを行っているとも言える。これまでのように支配的なコミュニケーションサービスにユーザーが一気に移行していくのではなく、併存するという前提にたって考える方が自然かもしれない。本当の意味でのネットコミュニケーションの多様化が始まったと言えるのではないか。

※本記事は取材を元に「The Social Insight Updater」編集部が作成しました。

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プロフィール
粉川 一郎

粉川 一郎

現在:
武蔵大学 社会学部メディア社会学科 教授
専門:
ソーシャルメディア論、NPO論、行政と市民のパートナーシップ
著書:
『パブリックコミュニケーションの世界』北樹出版 2011年(編著)
『社会心理とアイデンティティ』北樹出版 2011年(共著)
 
『社会を変えるNPO評価』北樹出版 2011年(単著)
 
『現代地域メディア論』日本評論社 2007年(共著)

 

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